昨日は節分でした。
旧暦で季節の変わり目、立春の前日に豆をまいて
無病息災を願う行事として、広く一般に行われています。
もとは中国にさかのぼるらしいのですが、
豆が魔滅(まめ)のごろ合わせにもなっているようです。
このあたりの解説は本やネットでたくさん出てきますので、このあたりで。
さて、浄土真宗のお寺では「節分」という行事がありません。
その理由は、あの掛け声を聞いてみると分かります。
「鬼は外、福は内」
嫌なことはどっか行ってくれー、
良いことは自分とこへ来てくれー
無邪気な言葉ですね。誰でもそうです。
でも、何十年・何百回豆をまいても、
必ずしもそうはならないこともまた、
私たちは知っています。
みんなで楽しく豆をまいてるのに雰囲気壊すなよ、
空気の読めないこと言うな、と思われるかもしれません。
そこで昔から言われている提案なのですが、
せっかく豆をまくからには、
「鬼は内、福も内」
と心の中で言い換えてみてください。
いつもではないけど、
些細なことですぐ心に鬼が出てくる私。
その鬼を住まわせている自覚の無い私。
(鬼=煩悩、悪人とも言えるかもしれないですね。)
そんな私が豆をまいたくらいで一体何が変わるというのでしょうか。
いや何も変わらないだろう。(反語表現)
そんなこと分かっているけど、人から言われると
なかなか素直に聞けない私だから、
仏さまの前に座るんだと思います。
仏さまの前で手を合わせることでしかできないことが
必ずあります。
それが、「鬼は内」の気づきじゃないでしょうか。
そんな私に向かって、私が意識する前からずうっと「気づいてくれよ」
とはたらき続けてくださっている、
阿弥陀如来という仏さま。
だからありがたいし、そうでないと(心に鬼がいることに)気づきもしない、
すぐ忘れる自分だったな、と思い出させてもらえる。
こんな風にみんなが少しずつでも思うようになれば、
争いは必ず減ります。
難しいし厳しいけれど、結局「鬼は外、福は内」になるには
それしかないんじゃないでしょうか。